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はじめての親鸞(その188) ブログトップ

7月4日(木) [はじめての親鸞(その188)]

 結びのことばとしては何とも激しい文言が連ねられています。当時のことを振り返りながら、改めて怒りを燃え上がらせている感じです。と同時に思いますのは、親鸞はこの事件をひとつの歴史の節目と捉えていたのではないかということです。
 ちょうどムハンマドがメッカから追放されメディナに落ち延びた事件(これを聖遷=ヒジュラと言います)がイスラム教の始めとされるように、この承元の法難こそ日本の浄土門が最初の試練に立たされ、そこから本格的な一歩を踏み出していった大事な出来事と見ているような気がするのです。
 聖道門から浄土門への転換を象徴することばが「すでに僧にあらず俗にあらず」です。これは親鸞自身がもう僧には戻らないという覚悟を表していることばであるとともに、浄土門は「非僧非俗」の立場であるという一種の独立宣言と思えます。
 そもそも大乗仏教は出家のための仏教から脱却し、在家のための仏教としてスタートしたはずですが、依然として出家した人たちが中心でした。そうした聖道門に対して「非僧非俗」の立場を改めて打ち出したのです。
 『歎異抄』には「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とありますが、これも「非僧非俗」の宣言です。「南無阿弥陀仏」はひとしく如来から賜わるのですから、誰が僧でも誰が俗でもなく、誰が師でも誰が弟子でもありません。ここにこれまでの仏教に対するはっきりした否定を見ることができます。「非僧非俗」は一種の独立宣言であると言ったのはそういう意味です。
 本来大乗仏教は出家と在家の区別を取り払うものであったのに、それがいつしか覆い隠されてしまいました。その覆いを取り払って大乗仏教の真理を「非僧非俗」として改めて打ち出したのが浄土門です。聖道門の真理は浄土門なのです。


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