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はじめての親鸞(その193) ブログトップ

7月9日(火) [はじめての親鸞(その193)]

 このように専修念仏の教えには他宗派との対立がはじめから組み込まれていると言っていい。都から遠く離れた関東の田舎においても事情は同じでしょう。『歎異抄』の次のくだりはそのあたりのことを伝えてくれて分かりやすい。
 「この頃、専修念仏の人と聖道門の人が、わが方が優れていて、相手方は劣っていると言い争っていますが、そんな争いの中で法敵が生まれたり、相手の教えを誹謗するようなことになります。これはしかしながら、自ら自分の教えを誹謗しているのではないでしょうか。たとえ他の宗派がこぞって、念仏は甲斐性のない人(かひなきひと)のためで、その教えは程度が低く卑しい(あさしいやし)と言ったとしても、特に争わずに“われわれのような甲斐性のない凡夫、文字も知らないものが、信じれば助かると承って信じているのですから、確かに能力のある人には卑しいかもしれませんが、われわれにとっては最上の教えなのです。たとえ他の教えや修行は優れているとしましても、われわれの身に余りますので、つとまりません。われも人もみんな迷いから逃れ出ることが諸仏の本意ですから、妨げないで下さい”と言って相手を憎まなければ、誰も危害を加えるようなことはないでしょう。」
 これは一見ものすごく自分を卑下しているように見えますが、実はゆるぎない自信に裏打ちされたことばです。「念仏こそ仏教の大道である」という自信です。あるいは「仏教は念仏に尽きる」という自負。

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