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7月13日(土) [はじめての親鸞(その197)]

 殴りかかってくる者を愛することができるのは、その人自身が深い愛に包まれているからではないでしょうか。自分が愛に満たされているから、その愛が他の人にもあふれ出るのでしょう、たとえ自分に殴りかかってくる人であっても。
 普通に「愛する」と言いますと、わたしが誰かを愛するということです、わたしの愛を誰かに与えるということです。そうしますと敵を愛することなど到底理解できません。わたしの愛を敵に与えることは考えられないからです。
 でも、わたしの愛ではなく「あなた」から届いた愛でしたら、わたしが誰かを愛するのではなく、愛それ自体が誰かを愛していくのです。その愛にはもともと敵も味方もありませんから、わたしから見れば敵であるような人にもかまわず向かっていきます。
 こうして敵を愛するという普通には考えられないことが起こるのではないでしょうか。
 さて念仏です。念仏を妨げようとする人を憎むのではなく、そのような人に「あわれみをなし」、そのような人を「かなしむこころをもつ」なんてことがどうしてできるのか。普通に「念仏する」と言いますとわたしが念仏すると考えますが、そう考えている以上、念仏を妨げようとする人を「かなしむこころをもつ」のはいつまでたっても理解できません。
 でも、わたしの念仏ではなく「あなた」から賜った念仏でしたら、わたしが誰かのために念仏するのではなく、念仏それ自体が誰かのために念仏するということです。こうして念仏は念仏を妨げようとする人にもかまわず向かっていき、念仏を妨げる人のために念仏するということが起こるのはないでしょうか。

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