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7月17日(水) [はじめての親鸞(その201)]

 「いし・かわら・つぶてのごとくなる」屠沽の下類が念仏往生の教えによって解放され、もう世の中に怖いものなど何もないと考えるようになることは、社会秩序を根本から揺るがすものと見えます。
 屠沽の下類はそれにふさわしく、聖俗の権威の前にひれ伏していなければならないのに、「悪人たちこそ救われるのだ」(悪人正機)という声を上げるようになるのですから、これは何としても抑えつけなければなりません。
 「悪人たちこそ救われる」という喜びがもっとも先鋭な形で表れたものが「本願ぼこり」という現象です。
 これまでは「お前たち屠沽の下類はそのままでは地獄に落ちるぞ」と脅されてきたのです。それが念仏の教えによれば「お前たちこそ救われるのだ」と180度転換するのですから、その喜びは如何ばかりでしょう。
 そこから「もう何も怖れることはない、どんなに悪いことをしても救われるのだ」という跳ね上がりが生まれてきたとしても不思議はないでしょう。これがしかし弾圧する側としては格好の口実になります。こんな連中を野放しにしておいては秩序が崩壊してしまうという名目で念仏を停止することができるからです。
 このように一部の跳ねあがりが弾圧の口実になることを見抜いている親鸞としては、「本願ぼこり」の誤りをきっちりと指摘しなければなりません。とは言うものの、ここでもことは実に微妙です。「悪人こそ救われる」(悪人正機)と「どんな悪をしてもいい」(本願ぼこり)。どこがどう違うのか。

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