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7月19日(金) [はじめての親鸞(その203)]

 煩悩はみんなの中に巣くっていますが、それに気づかなければ無いのと同じです。煩悩のままに振る舞いながら、それを煩悩だと気づいていない人は、そのことを煩い悩むことはありません。生きるとはそんなものだと思っています。でも、自分の中の煩悩に気づきますと、「こんな自分が救われるはずがない」という悲しみが全身を貫きます。これが「機の深信」です。
 「機の深信」とは煩悩の気づきで、「法の深信」とは菩提の気づき。
 煩悩の気づきは悲しみをもたらし、菩提の気づきは喜びをもたらします。この両者は切り離しがたく結びついています。ところが、「どんな悪人も救われる」のだから「どんな悪いことをしてもいい」と考えるところには、悲しみもありませんし、したがってまた喜びもありません。
 時代は下りますが、蓮如が北陸に教線を広げつつあった頃、その地に「十劫安心(じゅっこうあんじん)」と呼ばれる考え方が根を張っていたようです。
 これは、十劫の昔に法蔵菩薩の誓願が成就され、めでたく阿弥陀仏になられたことがすべてであると考えます。「一切の衆生を往生させたい」という本願が成就されたということは、もうわれわれの往生が定まったということです。今生でどのような生き方をしようが、そんなことは関係なく、往生できることが約束されているのです、もう何も不安はありません―これが「十劫安心」です。
 そこから「もう往生できることが決まっているのだから、好きに生きていいのだ」というところへはほんの一歩です。

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