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7月20日(土) [はじめての親鸞(その204)]

 蓮如はこの「十劫安心」を「他力の信心をえたる分はなし」と切り捨てていますが、それはどうしてでしょう。本願が十劫の昔に成就された、だからみんなの往生が約束された、これは浄土の教えの根本に違いありません。でもここに決定的に欠けているのは、成就された本願、約束された往生を受け止める「わたし」です。どんなに陽光が燦燦と降り注いでいても、それを「わたし」が受け止めることができませんと、それは存在しないのと変わりないのです。
 弥陀は十劫の昔から「ひとりも漏らさず往生させよう」と招喚してくれていますが、それが「わたし」に届いた時に、例えば「源左、助くる」と聞こえます。そしてそれを受け止めた源左は「ようこそ、ようこそ」と喜ぶことができるのです。陽光はみんなに降り注いでいますが、それを全身で受け止めた「わたし」には、自分ひとりに届いているような気がするでしょう。『歎異抄』の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という述懐は、本願が自分に届き、それを全身で受け止めた瞬間の喜びを表しています。
 しかし「十劫安心」にも「本願ぼこり」にも、本願が「わたし」に届き、それを全身で受け止めたという気配が感じられません。「みんなの往生が約束された」を数学の定理かなんぞのように聞き、そこから「では何をしてもいいのだ」と別の定理を導き出しているような感じです。そこには腹の底から突き上げるような喜びが感じられません。「源左、助くる」の声が聞こえた喜びがあれば、「わざとすまじきことをも」するでしょうか。「こんな自分が助けてもらえる」という喜びの中で、わが身を慙愧するのではないでしょうか。

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