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7月21日(日) [はじめての親鸞(その205)]

 ここまで来まして、ようやく第十八願の「ただ五逆と誹謗正法とをばのぞく」についての疑問に答えることができます。これは、本願を信じて念仏するものをすべて救うが、ただ親を殺したり仏を傷つけるなどの悪逆な行いをするものと仏法を謗るものは例外である、という但し書きでした。
 この例外規定は法蔵菩薩の本願としてはどうにも相応しくないと言わざるを得ません。法蔵菩薩の本願は、善人か悪人かといった相対的な区別を超えた絶対の慈悲に基づいており、どんな例外も許さない平等の救いを約束するものであるはずだからです。絶対・平等であるところに本願の尊さがあるのに、この「唯除」の文言はそれがぶち壊しになります。
 古来、この文言をどう捉えたらいいのかさまざまに議論されてきたようで、親鸞も『教行信証』においてこの問題にかなりのスペースを割いています。
 結論だけを言いますと、この「五逆と謗法を除く」という文言は、文字通りに五逆と謗法を救いの門戸から締め出すということではなく、五逆や謗法の罪の重さを強調して、「五逆や謗法などという大罪をゆめゆめ犯さないように」という戒めとして書かれているというのです。
 どんな大罪も救いのさわりになることはありません。これは本願の原点です。しかしだからと言って罪を犯していいということではありません。とりわけ五逆や謗法などという大罪を犯さないようにしなければならない。それを言わんがために「唯除」の文言があるのだと。

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