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7月25日(木) [はじめての親鸞(その209)]

 この頃、死ぬことについて考えることが多くなりました。死ぬことの意味について考えるようになってきたのです。死ぬ意味なんてあるのか、と言われるかもしれません。生きることに意味はあっても、死ぬことに意味なんてあるわけないじゃないか。死んだらすべておしまい。死ぬと無になるから、無に意味があるはずがない。
 でも、例えば犬死ということばがありますから、裏返せば意味のある死もあるということです。誰かのために尊い犠牲となって死ぬような時は、大いに意味があります。しかし、その場合の意味というのは、生きている誰かにとっての意味で、死んだ人にとっての意味ではないでしょう。「きみの死を無駄にはしない」と言ったりしますが、それは生き残った人にとって無駄にしないということです。死んだ人はもういないのですから、意味があるもないもありません。意味があるためには、生きていなければならないのです。
 としますと、本人にとっての死ぬ意味なんて、そんなものはあるわけがないということになりそうです。でも、果たしてそうでしょうか。生きていることに意味があるなら、死ぬことにも意味があるのではないでしょうか。
 生きるにせよ死ぬにせよ、そもそも意味があるというのはどういうことか。「生きる意味がある」というのは、生きていることを寿ぐことができるということです。「生きていてよかった」と思えることです。そうしますと、「死ぬ意味がある」というのも、この先、明日か、1年後か、それとももっと先か分かりませんが、ともかくもう少しして自分が死ぬことを寿ぐことができるということでしょう。
 死ぬのもいいじゃないかと思える。これが「死ぬ意味がある」ということです。

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