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7月26日(金) [はじめての親鸞(その210)]

 どんな時に「生きていてよかった」と思えるかと言いますと、例えば生徒から「先生の授業分かりやすくて面白かった」などと言ってもらった日には、天におどり、地におどるほど嬉しくなります。スキップしながら帰りたくなります。
 そんな時「生きていてよかった」と思えます。生きる意味があると思えるのです。こんなふうに、生きる意味は自分で与えることはできず、誰かから与えてもらわなければなりません。どれほど「こちらから」手に入れようとしても駄目で、ある時思いがけず「向こうから」与えられる。
 そんなとき同時に死も寿ぐことができるのではないでしょうか。「生きていてよかった、もう死んでもいい」と思う。
 いや、そういうわけにはいかないよ。今生きていることを寿ぐことができれば、もっと生き続けたいと思うに決まっているから、そう簡単に死ぬことを受け入れることはできない、と言われるかもしれません。しかし、どうしてそう簡単に死ぬことができないかといいますと、まだし残したことがあるような気がするからです。
 つまりは、今日生きていることに自足していないということです。としますと、今日生きていることを心から寿ぐことができさえすれば、いつ死んでもいいと思えるわけです。嬉しさが腹の底から込み上げてきたようなとき「もういつ死んでもいい」と言うではありませんか。
 いい映画を観ていて素晴らしい感動をもらったとき、その映画がいつまでも続くことを願うでしょうか。いい終わり方をしてほしいとは思いますが、もういつ終わってもいいと思うのではないでしょうか。人生も同じです。今生きていることを腹の底から寿ぐことができれば、それがいつ終わってもいいと思えます。

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