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7月27日(土) [はじめての親鸞(その211)]

 生きる意味が与えられ「生きていてよかった」と思うことができれば、その時、死ぬ意味も与えられているのではないでしょうか。
 ぼくら団塊世代が若かった頃、実存主義が一世を風靡しました。「実存は本質に先立つ」というサルトルのことばにぼくらは大いに魅力を感じました。これは「自分は一体何ものか」という問いには、前もって答えが与えられていないから、自分でその答えを与えるしかないということです。もっと言えば、自分が生きる意味を自分で創り出す自由があるということです。生きる意味は自分で与える、この感覚は当時のぼくらにしっくりきました。ぼくらは自由に憧れていたのです。
 しかし本当に生きる意味を自分で与えることができるのでしょうか。
 「何のために生きるか?」という問いは、自分で答えを見つけるしかありません。ある青年が「レジスタンスに投じるか、それとも家にとどまって母親の面倒を見るか」の問いを抱えてサルトルを訪ねてきたとき、サルトルは「きみがカトリックの神父のもとを訪ねずに私のところに来たということは、もうすでに自分で答えを見つけているということではないかね」と言ったとのことですが、確かに「何のため?」は自分で決めるしかありません。
 でも「何のためであれ、生きることそのものに意味があるのか?」の問いはどうでしょう。この答えを自分で出すことができるでしょうか。「できない」と答えるのが親鸞の他力思想です。

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