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はじめての『教行信証』(その5) ブログトップ

2013年8月2日(金) [はじめての『教行信証』(その5)]

 どうも違うようだ、この書物に対しては、例えばカントの『純粋理性批判』に向き合うときとは全く違う姿勢でなければならない、と思うようになりました。そうしますと、これまであれほど抵抗感のあった文章が素直に身体の中に入ってくるのを感じるのです。
 こうしてようやく、これが浄土真宗の根本聖典とされるものであることが身体で納得できるようになりました。『歎異抄』や『末燈鈔』とはまた違う味わいを実感することができ、これで親鸞の全体像をつかめたように思えたのです。
 その姿勢の違いとは一体何か。それをお話したいと思うのですが、その前にこの書物の概略を一通り説明しておきましょう。

(2)『教行信証』という書物
 まず、この書物の正式名称です。『顕浄土真実教行証文類』、つまり「浄土の真実の教と行と証を顕すための文類」ということです。まず気づくのは、略称では『教行信証』というのに、ここに信という文字が入っていないことです。
 浄土真宗は「信の宗教」と呼ばれ、現にこの書物の第三巻が「信巻」であるにもかかわらず、書名の中には入っていないのです。詳しくは、行巻、信巻のところで述べますが、ひとつは仏教書の伝統的な形式、つまり、まず教を明らかにし、それに基づく行(修行)について述べ、そしてその結果としての証(悟り)で締めくくるという形式にのっとっているということができます。
 そして、もっと大事なこととして、親鸞にとって行と信とは別ものではなかったということがあります。あるのはただひとつ、「南無阿弥陀仏」のみ。同じものを行の側面から見るか、信の側面から見るかの違いにすぎません。富士山を静岡県側から見るか、山梨県側から見るかの違いのようなものです。しかし、同じなら、行巻だけでいいじゃないか、どうして信巻をおく必要があるのか、これはいま問いのままにしておこうと思います。それはこの書物の本質に関わることだからです。

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