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はじめての『教行信証』(その6) ブログトップ

2013年8月3日(土) [はじめての『教行信証』(その6)]

 さて、この『顕浄土真実教行証文類』を『教行信証』と呼ぶようになったのは、親鸞の曾孫に当ります覚如、事実上の本願寺の創設者がそのように略称するようになってからで、以来『教行信証』と呼び習わされるようになりました。因みに、教・行・信・証の四巻の後に、真仏土巻、化身土巻がおかれていまして、全部で六巻構成になっているのですが、この二巻がどうして必要だったかについては、それぞれのところで述べることにします。
 二点目ですが、この書物はいつ書かれたかということです。
 本文中にこれに関係する年号が出てくるのはたったの一箇所で、最後の巻である化身土巻に「元仁元年」とあるのみです。元仁元年とは西暦の1224年で、親鸞52の年ですが、この年が当時の数え方では釈迦が入滅して2183年目であり、正法500年、像法1000年としますと、末法に入って618年になると書かれています。この年が本文中に出てくるからには、教行信証が書かれたのは、この年だろうと推定されているのです。この時期、親鸞は常陸の国、稲田の草庵にいましたが、ここで書かれたということになります。
 しかし、これに対してはさまざまな反論があります。幸い今日まで残されている親鸞自筆の『教行信証』(坂東報恩寺にありましたので坂東本と呼ばれ、いま東本願寺にあります)が綿密に研究され、その結果、総合的に見ますと、関東時代に書き始められ、京都に戻ってからも繰り返し推敲の手が入り続けたと思われます。実際、真蹟本の写真を見ますと、推敲のあとがはっきり分かりますから、亡くなる寸前まで、この書物の完成にエネルギーを注ぎ続けたのでしょう。

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