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はじめての『教行信証』(その9) ブログトップ

2013年8月6日(火) [はじめての『教行信証』(その9)]

 真理はすでに聖典の中に説かれているなどと言われると、どうしてそんなことが言えるのかと反発したくなります。それはドグマ、つまり独断あるいは教条だと感じるのです。そして、これだから宗教にはついていけないという拒否反応が起こります。
 これはごく自然で、正常な反応でしょう。自分の眼と耳で確認しないうちは、うかつに信用してはならない、これはぼくらが生活していく上での基本原則とも言えるものです。ところが、その一方で、この世に新しいことなど何もない、もうすでにすべてのことが聖典に説かれてある、という考え方にも深く頷かされるものがあります。
 宗教と学問、この関係をどう捉えればいいのでしょう。
 何度も言いますように、『教行信証』はそのほとんどが経典(浄土三部経をはじめ、法華経、華厳経、涅槃経など)からの引用、そして過去の高僧たち(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然のいわゆる七高僧など)の論・釈からの引用で埋められています。これは初めて読むものを大いに戸惑わせ、そしてしばしば躓きの石となります。
 普通の感覚では、書物というものは著者の新しい考え方が述べられているはずです。ところがこの書物ときたら大半が引用で、ところどころに親鸞自身の文章が挟まっていますが、それとても、著者独自の新しい観点を打ち出すというより、わたしは引用した経・論・釈をこのように読みましたという性質のものです。
 ですから、この書物を学問の書として読もうとしますと、最初から躓いてしまいます。

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