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2013年8月10日(土) [はじめての『教行信証』(その13)]

 もし親鸞も同じように「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という教えの正しさを検証しなければならないと考え、経典や論・釈の海を探索しようとしているのでしたら、「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」などということば絶対出てこないと思います。
 どうやら経典や論・釈と向き合う時の心のベクトルが根本的に違っているようです。
 あることがらが正しいかどうかを確かめようとするのはごく自然な心の動きです。いろいろ調べてみて、まあ間違いはないだろうと確認できて、はじめてそれを信じることができるのです。それをしないで闇雲に信じるのは、ぼくらを破滅に導きます。
 「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」ということばについても、それが本当かどうかを確認しなければならない、そうでなければ信じることができないというのも自然な心の動きだと思います。でも、この「信じる」と、親鸞が「よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と言うときの「信じる」とは、そのベクトルが逆さまではないでしょうか。
 それが本当かどうかを確認した上で「信じる」場合は、こちらから信を与えています。しかし、たとえ騙されてもいいから「信じる」場合は、向こうから信を与えられているのです。「こちらから与える信」と「向こうから与えられる信」。前者は分かりやすいですが、後者は一体何でしょう。それを考える手がかりとなるのが、「序」に出てくる「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえたり」という言い回しです。

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