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2013年8月19日(月) [はじめての『教行信証』(その22)]

 みんなにとってかけがえのない存在を失ったことで、家族の中に深くしみじみとした絆が生み出されることがあります。こんなときに災い転じて福となったと感じるのでしょう。でも、だからといって、災いと福とを天秤にかけて比べることはできません。家族の一員を失った悲しみは、残されたみんなのこころがひとつに融け合う喜びによって帳消しになるわけではありません。それはいつまでもみんなのこころの底に淀み続けることでしょう。でも、災い転じて福となることで、災いに意味が見いだされ、その結果悲しみが和らぐのです。
 「悪を転じて徳となす」も同じように考えることができます。念仏によって悪が消えて、徳に取って代わられるということではありません。それでは念仏が滅罪のための呪文になってしまいます。悪は悪のまま、罪は罪のまま決して消えることはありません。でも、悪の道を通り抜けることで、そうでなければ思いもよらないような光に出会うことがあるのです。そして、その光に照らされることで悪の苦しみが和らぐ。これが「悪を転じて徳をなす」の意味だと一応は言うことができます。
 でも、それは一体どういうことか。
 親鸞は『高僧和讃』のなかで、こんなふうに詠っています。「無碍光の利益より 威徳広大の信を得て かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」。そして続いてもうひとつ、「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」。煩悩と菩提、罪と徳を氷と水の関係に譬えています。「悪を転じて徳となす」とは氷が解けて水となることだと。氷と水は本来同じものです、ただ形が違うだけ。そのように、悪と徳も本来同じで、ただその形が異なるだけだと言うのです。

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