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2013年8月21日(水) [はじめての『教行信証』(その24)]

 本願には「あひがたく」、信心は「えがたし」。だから、たまたま得られたら「とをく宿縁をよろこべ」とあります。このことばにはある意味で戸惑いを覚えます。一般に、聖道の教えは難行であるのに対して、浄土の教えは易行だとされているからです。
 親鸞自身、少し前に「凡夫も修めやすい真実の教えであり、愚かなるものも行きやすい近道」と言っていました。本願を信じ念仏するだけて救われるのだから、こんなに易しいことはないと。ところがここでは「かたし」「かたし」と言われる。どう考えればいいのでしょう。
 本願に遇ってみれば、なんだこんなに易しいのかとなります。でも本願に遇うまでは、いかにも難しいと感じられるのです。
 そもそも難しいとか易しいとは、自分で何かをするときに使うことばです。でも、前に述べましたように、本願に遇うのはそうしようと思って自分ですることではありません。思いがけず、たまたま遇うのです。ですから本来はそれを難しいとも易しいとも言うことはできません。
 でもあえて言うなら、遇ってしまった後では、それは自分の努力でも何でもありませんから、とてつもなく易しいと感じます。でも、遇うまでは、自分の努力で何とかなることではありませんから、これほど難しいことはないと感じるのです。
 かくして、とんでもなく易しいが、同時にとんでもなく難しいということになります。

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