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はじめての『教行信証』(その26) ブログトップ

2013年8月23日(金) [はじめての『教行信証』(その26)]

 「念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。
 ぼくはこの文章を読むたびに、「すなはち」を「もうすでに」と読みたくなるのです。そう読むように促がされている気がするのです。「念仏申さんとおもひたつこころのをこる」のは「いま」ですが、その時に「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のではなく、「もうすでに」摂取不捨の利益に与っていることに気づく。「もうすでに」摂取不捨の利益にあずかっているのですが、そのことに「いま」気づくのです。
 ですからこうなります、「ふと念仏申そうかと思った時、あゝすでに救われているのだと気づかせてもらえるのです」と。
 もう一度「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえたり」に戻りますと、「西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈」に「いま」遇うことができたのですが、その時気づいたのです、「もうすでに」如来の本願が聞こえていたことに。ずっと以前から聞こえていたのに、いままでそれに気づかないままだった。いまようやく気づかせてもらったのです。ここから「たまたま行信をえば、とをく宿縁をよろこべ」の述懐が生まれます。
 しかし一体何が聞こえてきたのでしょう。何が心に沁みたというのでしょう。ここから『教行信証』教巻が始まります。

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