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2013年8月26日(月) [はじめての『教行信証』(その29)]

 廻向とは「仏からの恵み」、「仏からの賜物」であるということ。
 少し先回りになりますが、第十八願成就文と呼ばれるものをあげておきましょう。必要なところだけですが、「至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転」。これは普通、「至心に廻向して、かの国に生まれんと願わば、すなわち往生することをえて、不退転に住す」と訓読するところです。ところがどっこい、親鸞はこう読むのです、「至心に廻向したまえり。かの国に生まれんと願わば、すなわち往生することをえて、不退転に住す」。至心に廻向する主体がわれらから如来へとひっくり返ってしまう。これが親鸞流です。
 すべては(往生だけでなく信心も念仏も)仏からの賜物であるというのが親鸞にとっての他力の意味です。
 さて、その賜物に二種類あって、浄土へ往くことと、浄土から還ることがあると言います。浄土へ往くのはいいでしょう。それを求めるのが浄土教ですから。分かりにくいのが浄土から還るということです。われわれは浄土へ往くだけでなく、この娑婆に還ってきてみんなのために働くのだというのですが、これがどうにもピンとこない。
 自分だけが浄土に往生することでよしとするのではなく、みんなも同じように往生できなければならないという大乗の精神がこの還相という考え方に出ているのはよく分かるのですが、まず往相があって、しかる後に還相ということだとしますと、時間が今生と来生とに分断されてしまうようで戸惑うのです。今生は娑婆から浄土へ向かい、来生にみんなを救うために娑婆に戻ってくるというのは、ぼくらの通常の時間感覚からあまりにも隔たっています。

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