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はじめての『教行信証』(その36) ブログトップ

2013年9月2日(月) [はじめての『教行信証』(その36)]

(3)物語を信じるということ
 さて、無量寿経が「法蔵菩薩の物語」であるとしますと、そんなものを信じるなんてことがどうしてできるのかという問題が生じてきます。浄土の教えは「ただ本願を信じて念仏するだけ」と言われるのに、その本願が架空のお話であるとしますと、何を頼りにすればいいのでしょうか。
 『歎異抄』第2章のあの緊迫した場面が頭に浮かびます。あなた方が関東から「身命をかへりみずして」わたし親鸞を訪ねてくださったのは、「ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがため」でしょう。しかしながら、わたしとしましては「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と法然上人からお聞きして、それを信じているだけで、それ以外に何もありません、というあの場面です。
 関東からやってきた人たちが本当のところ何を聞きたかったのかは分かりませんが、「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」ということはすでに聞いていたでしょうから、その上ではるばる「十余ヶ国のさかひをこえて」親鸞に会いに来たからには、どうしてそんなふうに信じられるのか、その根拠を聞きたかったに相違ありません。
 無量寿経にそう説いてあるにしても、それは所詮「物語」であるとすれば、一体何を頼りにすればいいのかといったことを親鸞の口から聞いてみたい。ところが親鸞の口から出てきたことばは驚くべきものでした。
 「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。

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