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はじめての『教行信証』(その37) ブログトップ

2013年9月3日(火) [はじめての『教行信証』(その37)]

 たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。
 ここで法然上人の仰せを信じると述べているのですが、同じ章の最後のところに出てきますように、法然の仰せは善導から、善導の仰せは釈尊から、釈尊の仰せは阿弥陀仏から来ているのですから、結局のところ弥陀の本願を信じるということに行き着きます。  
 ですからこれは「たとひ本願にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」と言っているのです。弥陀の本願なんてつくり話ではないか、という疑問に対して、つくり話、うその話であっても一向に構わない、わたしはそれを信じるというのですから、これは驚くしかありません。
 つくり話であっても信じるとはどういうことでしょう。
 つくり話としてしか語れない真実があるということです。紛れもなく真実の声が聞こえるのですが、それがどこから来るのか分からない場合、どう語ってみてもつくり話になってしまうということです。そして聞く側としては、それがつくり話であるとしても、そこに真実を感じてしまうのです。
 こう言うべきでしょうか、その話が誰の口から聞こえるとしても、その人を通り越して自分自身が直に真実の声を聞いているのだと。親鸞は法然の口から本願を聞いたのですが、しかし実は法然を通り越して直に本願の声を聞いているのです。としますと、つくり話であろうが、うその話であろうが、自分が直に真実の声を聞いているのですから、もう信じるしかありません。

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