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2013年9月4日(水) [はじめての『教行信証』(その38)]

 もういちど「如来の本願を説きたまふを経の宗致とす。即ち仏の名号を以て経の体とするなり」に戻ります。これは、本願が「おおもと」で、名号はその「かたち」であるということでしょう。もともと「かたち」のない本願に「かたち」を与えたのが名号であると。
 本願という「ねがい」と名号という「こえ」。
 ぼくの「ねがい」のことを考えてみます。ぼくにはさまざまな「ねがい」がありますが、そのひとつ、もっとも切実なものに妻のことがあります。ぼくらには子どもがなく、そしてぼくの方が先に旅立ちます(と決めています)から、ひとり取り残された妻のことが心配になるのです。
 ですからぼくが旅立つ前に、心配の種になるようなことはできるだけ少なくしておいてやりたいと思う、これがぼくの「ねがい」です。この「ねがい」はぼくのこころの中にあります。「こころの中」というのが分かったようで分かりませんが、とにかく思いとしてあるということです。
 いまぼくはその思いをことばにして書きとめたわけですが、これが「かたち」を与えるということです。その思いを「こえ」として妻に直接伝えれば、もっとはっきり「かたち」を与えることになります(気恥ずかしくてできませんが)。「ねがい」と「こえ」の関係をこんなふうに捉えることができますが、ここで注意しなければならないのは、まずもって、どこかに「ねがい」があり、それに「かたち」が与えられて「こえ」(あるいは文)になる、のではないということです。「かたち」が与えられて「こえ」(あるいは文)になったとき、はじめて「ねがい」は「ねがい」として生まれたのです。

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