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2013年9月5日(木) [はじめての『教行信証』(その39)]

 「こえ」という「かたち」が与えられなければ「ねがい」はどこにもありません。
 さて、いま問題となっているのは、ぼくらの「ねがい」ではなく、弥陀の「ねがい」です。弥陀の「ねがい」をひと言でいえば「生きとし生けるものを救いたい」となり、ぼくらの「ねがい」との違いは明らかです。ぼくらの「ねがい」は「救われたい」であって「救いたい」ではありません。
 ぼくらには「救われる」という受動態しかありません。「救う」という能動態は存在しないのです。「きみを救おう」とか「あなたを救いたい」などという人が現われたら、その人は間違いなくペテン師です。なぜそんなことが言えるのか。
 これは「他力」に関わる根本問題ですから、この論述全体を通して明らかにしていくしかありません。ですが、とりあえずこの段階で言えることを述べておきましょう。「与える」ということに関わります。ぼくらはいろいろなものを人に「与える」ことができます(ここで「できる」というのは可能性があるということで、現実にできるかどうかは別問題です)。
 食べものがない人には食べものを、着るものがない人には着るものを、住むところのない人は住むところを「与える」ことができます。愛に飢えている人には愛も「与える」ことができるでしょう。この頃はips細胞とかのお蔭でいのちすら「与える」ことができるようになったようです。
 さて問題は「救い」です。「救い」を「与える」ことができるでしょうか。飢え死にしかかっている人に食べものを「与える」ことで、その人は「救われた」と思うかもしれません。でもそれは「死ななくてすんだ」ということで、「救い」を「与えた」わけではありません。

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