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はじめての『教行信証』(その41) ブログトップ

2013年9月7日(土) [はじめての『教行信証』(その41)]

 誰かに何かを与えることができるためには、それをまずは自分に与えることができなければなりません。衣食住を人に与えることができるのは、すでに自分に与えることができているからです。
 さて「救い」を自分に与えることはできるでしょうか。先のイメージで言いますと、宇宙空間を寄る辺なくひとり漂うとき、自分に「救い」を与えることができるかということです。どこかからやってくる「きみの位置を確認した」というメッセージに相当するものを自分に与えることができるでしょうか。
 そのとき自分が自分に何を言いきかせるにしても、それが「救い」となるとは思えません。そして「救い」を自分に与えることができないとしますと、それを人に与えるなどできるわけがありません。ぼくらはさまざまなものを人に与えることはできるとしても「救い」を与えることはできないのです。
 だいぶ時間を取りましたが、ぼくらは人を救うことはできず、ただ救われるだけということを見てきました。ここから、ぼくらの「ねがい」は「救われたい」であって「救いたい」ではないということが出てきます。ところが弥陀の「ねがい」は「生きとしいけるものを救おう」ということです。ぼくらの「ねがい」と弥陀の「ねがい」はそのベクトルの向きが逆さまであり、だからこそ弥陀の「ねがい」はぼくらの「ねがい」を叶えてくれるのです。
 さて弥陀の「ねがい」は名号という「こえ」とならなければなりませんが、それはどのようにしてか。これを明らかにするのが次の行巻です。


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