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2013年9月9日(月) [はじめての『教行信証』(その43)]

 第十七願は「たとえ私が仏となるとしましても、あらゆる世界の無数の仏たちがみな私をほめたたえて私の名を称えないようでしたら、私は悟りを開きません」という内容ですが、いかがでしょう、「あれ?」と思われなかったでしょうか。
 「行といいますのは、阿弥陀仏のみ名を称えることです」ときて、それは「世界中の仏たちが私の名を称えるようにさせたい」という第十七願にもとづいていると言われるのですが、仏たちが阿弥陀仏の名を称えることがどうしてわれわれの行と関係あるのかという疑問が湧いてきます。われわれの行が問題となっているはずなのに、なぜ仏たちのことが取り上げられるのかと。
 ぼくは長い間この疑問にとらわれてきました。いろいろな本に当たってみましたが、どうも納得のいく答えが得られないままでした。ぼくの中に一つの強い思いこみがあったのです、行というのはぼくらがするものであると。
 信心にせよ念仏にせよ、「賜りたる信心」であり「賜りたる念仏」だということは一応分かってはいるつもりでした。前に言いましたように、廻向とはすべて「仏から」だということです。「こちらから」ではなくて「向こうから」与えて下さるのだと。
 しかし、信心は「向こうから」がそれなりに納得できるとしても、念仏となると、やはり自分で称えようと思わなければ称えられるものではありません。南無阿弥陀仏は与えられたものであるとしても、それを称えるのはどこまでもぼくらではないかと思っていたのです。ここに根本的な錯誤がありました。
 南無阿弥陀仏はぼくらがこちらから称えるより前に、向こうから聞こえてくるものだったのです。

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