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はじめての『教行信証』(その45) ブログトップ

2013年9月11日(水) [はじめての『教行信証』(その45)]

 「なむあみだぶつ」はわれらがこちらから称えるより前に、向こうから聞こえてくるものだということ。ここに着目することで、行巻の標挙の願として第十七願を取り上げた親鸞の慧眼を今さらながら感じます。
 と言いますのも、親鸞の師匠である法然も十七願には触れていないからです。『選択本願念仏集』を見ますと、法然はその冒頭で「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす(念仏こそ往生の行である)」と述べ、それを明らかにするために広く経釈の文を集めているのですが、その中に第十七願は全く出てきません。
 法然が四十八願の中から選び出すのは第十八願です。
 「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。
 念仏すれば往生できることの根拠として、この第十八願を持ち出すのは分かりやすいと言えます。「本願を心から信じて、往生したいと思い、十回も念仏すれば、必ず往生できる」と言っているのですから、「十回も念仏すれば」に着目して、この願を持ち出すのが常識的でしょう。
 ところが親鸞は十八願を信巻に回し、行巻では十七願を取り上げるのです。これには最初意表をつかれますが、しかしよくよく考えてみると、深く頷くことができるのです。そうか、念仏はわれらの行ではなく、諸仏の大行なのだと。われらが南無阿弥陀仏と称えるのではなく、向こうからやってくる南無阿弥陀仏の声を聞かせてもらうのだと。ここに親鸞の卓見があると言わなければなりません。

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