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2013年9月12日(木) [はじめての『教行信証』(その46)]

(2)聞名と称名
 なるほど「なむあみだぶつ」は諸仏の声が聞こえてくるものなのだとしましても、しかし念仏と言いますと、何と言っても、ぼくら自身が「なむあみだぶつ」と称えることです。ただ聞こえているだけでは念仏にはなりません。ぼくらが自分の口から南無阿弥陀仏と称えてはじめて念仏と言えます。
 第十七願はそれだけでとどまることはできず、第十八願につながらなければならないということです。
 「なむあみだぶつ」と聞こえてくることと、それを口に称えるのと、この二つがどうつながるのか、これを考えなければなりません。しかしその答えはもう先ほどの『平等覚経』の一節に出ているのです。
 「わが名字をききて、みなことごとく踊躍せんもの、わがくにに来生せしめん」とありました。「なむあみだぶつ」と聞こえてくれば、もう心は踊躍歓喜して、その喜びがおのずから「なむあみだぶつ」となって口から出てしまうということです。
 「称える」は「となえる」ですが、「たたえる」とも読みます。
 いまから5年ほど前、アメリカは大統領選挙の最中で、アメリカ中が「オバマ、オバマ」の声に満ちていました。オバマが大統領になれば、何かやってくれそうだ、世の中が変わりそうだという期待があふれていたのです。そういえばオバマ陣営のキャッチフレーズは「チェンジ」でした。
 あのとき「オバマ、オバマ」の声がいろいろなところから聞こえてきましたが、それはオバマに期待し、オバマを「たたえる」声です。その声を聞いて、何だか嬉しくなってきて、思わず自分も「オバマ」と叫んでしまう。こうして「オバマ、オバマ」の声がますます広がり、ついに初めての黒人大統領を生み出してしまったのです。

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