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2013年9月17日(火) [はじめての『教行信証』(その51)]

 普通「帰命する」と言いますと、われらが阿弥陀仏の「命に帰する」と考えますが、親鸞は逆に、阿弥陀仏がわれらに「帰せよと命ずる」ことだと言うのです。「われらが」ではなく「阿弥陀仏が」、「こちらから」ではなく「向こうから」。
 そのことを第十七願とつなげますと、まず「わが名をして八方上下無数の仏国にきかしめん」、つまり十方世界の諸仏に「なむあみだぶつ」と称えさせよう。そして「諸天人民蠕動のたぐひ、わが名字をききて、みなことごとく踊躍せんもの、わがくにに来生せしめん」、つまり、「なむあみだぶつ」の声を聞いた衆生はみな踊躍してこだまのように「なむあみだぶつ」と称えるだろう、そうした衆生をみな迎えとろう、ということです。
 それだけではありません、さらに善導が「南無」とは「発願廻向」だと言っているのを換骨奪胎します。善導は普通にわれらが「発願廻向する」ことと受け取っていますが、それを180度転回するのです。阿弥陀仏が発願し廻向して下さる(与えて下さる)のだと。
 われらが「なむあみだぶつ」と称えるのに先立って、諸仏が「なむあみだぶつ」と称え、われらはそれを聞かせてもらうということを見てきましたが、それと軌を一にして、われらが往生したいと願うのに先立って、阿弥陀仏がわれらを往生させたいと願ってくださっているというのです。
 われらが願うことができるのは、もうすでに願われているからということ。ここに他力の真髄があります。
 われらが「なむあみだぶつ」と称えるには違いありませんが、実は向こうからやってくる「なむあみだぶつ」にこだまのように唱和しているにすぎないように、われらが往生を願うには違いありませんが、実は向こうから願われていることに気づくのにすぎないのです。

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