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2013年9月26日(木) [はじめての『教行信証』(その60)]

 これは「二重の因縁」と呼ばれ、まず一重目の因縁は、名号が因、光明が縁、そして二重目は、信心が因、光明と名号が縁だというのです。往生のためには名号と光明が与えられなければなりませんが、しかし名号と光明が与えられたとしても、それを受け取る信心がなければならないということです。
 弥陀の本願は名号と光明という形をとって与えられます。名号として与えられるということは「なむあみだぶつ」の声(本願招喚の勅命「帰っておいで」でした)が聞こえてくるということです。そして光明として与えられるということは光の中に摂取して捨てられないということです。声と光が与えられる。しかしどれほど呼びかけてくださっても、どんなに照らしてくださっても、それに気づかなければそれまでです。この気づくということが信心です。
 これを本願と信心の関係として捉えることができます。本願(名号と光明)があっても、それを受け止める信心がなければ、本願は存在しないと言わなければなりません。信心は本願がなければ生まれないことは言うまでもありませんが、本願も信心があってはじめて成就されるのです。
 「南無」は「阿弥陀仏」あってこそですが、「阿弥陀仏」も「南無」あってこそです。
 このように見てきますと、こちらに信心(南無)があり、あちらに本願(阿弥陀仏)があるというようにはなっていないことが分かります。もし南無と阿弥陀仏が離れていますと、その隙間に「わたし」がしゃしゃり出てきて、称える念仏も「ためにする念仏」となります。自力の念仏です。

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