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はじめての『教行信証』(その61) ブログトップ

2013年9月27日(金) [はじめての『教行信証』(その61)]

 本願と信心は一つだと言わなければなりません。
 曇鸞の次のことばはその辺りをうまく言い当てています。「たとへば火、木よりいでて、火、木をはなるることをえず。木をはなれざるをもてのゆへに、すなはちよく木をやく。木、火のためにやかれて木すなはち火となるがごとし」。燃やす火と燃える木を切り離すことはできません。燃えることにおいて一つです。同じように、信心と本願も一つです。火を信心、木を本願に置き換えて読んでみましょう。そうしますと、「信心は本願より出て、本願から離れることはありません。本願から離れないがゆえに、それを真実の信心と言えるのです。また本願も信心に受け止められてはじめて成就するのです」となります。
 さて、「二重の因縁」のあと、念仏の数の問題について次のように述べられます。
 「『無量寿経』には乃至といわれ、善導大師の『観経疏』には下至といわれていますが、乃至と下至とはことばが違うだけで、その意味は同じです。また乃至とは、一念も多念も包み込むことばです。」
 当時、法然門下で一念義(往生には一念で足りる)と多念義(行住坐臥の念仏が大事)の対立があり、その問題について法然の高弟隆寛が『一念多念分別事』を著しています。親鸞はこの兄弟子の書物の注釈書として『一念多念文意』を著しているのですが、その結論としてこう結んでいます、「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし」と。

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