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2013年9月28日(土) [はじめての『教行信証』(その62)]

 「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり。またく一念往生・多念往生とまふすことなし」。
 親鸞の立場は明らかでしょう。そもそも一念か多念かと争うこと自体がおかしいのです。その争いには、称名はわれらの行であるという前提があります。われらが称名という行をなすに当たって、一念が正しいか多念が正しいかと争っているわけです。
 しかし、これまで見てきましたように、称名はわれらの行ではなく、如来の大行なのです。如来から廻向していただくのであり、われらから言えば、不廻向であり、非行でした。とするならば、一念がよろしいのか、多念がよろしいのかと問うこと自体がナンセンスだと言わねばなりません。
 さてこの後、これまでの締めくくりの文がきます。
 これすなはち真実の行をあらはす明証なり。まことにしんぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。しるべし。
 「以上はすべて念仏が真実の行であることをあらわす明らかな証拠です。まことに知ることができました。念仏は阿弥陀仏が選びぬかれた衆生摂取のための本願であり、世に超えてたぐいまれな勝れた行であり、すべての善をまどかに包み込んだ真実の教えであり、なにものにもさまたげられない究極の大行です。このように心得るべきです。」
 さあこれで行巻は終わりかと思いきや、次の一文がきます。
 他力といふは、如来の本願力なり。
「他力と言いますのは、阿弥陀仏の本願力のことです。」

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