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2013年10月3日(木) [はじめての『教行信証』(その67)]

 やはり最終的には自力でなければ気がすみません。「いや、その自力が働くことができるのも他力があってこそ」と言われても、そんなことは断じて承服できない。これはもう理屈ではありません、承服しないという意志です。なぜ承服しないかと言いますと、承服してしまうと「わたし」が無にされるように思えるからです。「生きんかな」の意志が否定されてしまう気がするからです。
 ニーチェがどうしてあれほどまでキリスト教に対する憎悪を募らせたか。それはキリスト教は「権力への意志」を否定すると思えたからです。つまりは「わたし」を否定するから。そんなことは断じて許せない。「わたし」を否定されるほど耐え難いことはありません。他はよほどのことに耐えられても、これは耐えられない。
 「聞思して遅慮する」のは、どうやら「わたし」が否定されるように感じるからのようです。しかし、他力ははたして「わたし」を否定するのでしょうか。
 ふと思い出したのですが、民主党政権時代に「事業仕分け」の最前線に立った蓮舫議員が、スパコン開発に関連して、「1番でなければならない理由があるのでしょうか。2番ではダメでしょうか」と発言して話題になりました。
 ノーベル賞受賞者たちから「科学というものが全く分かっていない」と批判を浴び、自民党はこの発言を逆手にとったスローガン「いちばん」で参院選を勝利しました。確かに科学の世界では「いちばん」がいのちでしょう。新学説の発表が一秒でもが遅れるともう何の値打ちもなくなる世界です。あるいは特許申請がタッチの差で却下されてしまう。
 しかし、ほんとうに1番でなければならない理由があるのでしょうか。2番ではダメなのでしょうか。

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