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2013年10月5日(土) [はじめての『教行信証』(その69)]

 「わたし」は一番でなければならない理由があるのか。
 一番ではなく二番であることで、むしろ輝くということはないのでしょうか。たしかに一番であってはじめて輝くことはあるでしょう。スパコンはそういうものかもしれません。でも「わたし」は一番ではなく、二番であることではじめて輝くのではないか。
 では一番は何かと言いますと、「生かしめんかな」という弥陀の願いです。
 「わたし」が「生きんかな」の意志であるように、弥陀とは「生かしめんかな」の願いです。まず弥陀がいて、その弥陀が「生かしめんかな」の願いを持つのではありません、「生かしめんかな」の願いが弥陀なのです。この「生かしめんかな」の願いがあってはじめて「生きんかな」の意志が輝く。
 スパコンの一番と二番は、その性能を競い合う関係ですが、「生かしめんかな」と「生きんかな」は、そのような間柄ではありません。どちらがより根源的かで、一番と二番が決まるのです。「生かしめんかな」があることで「生きんかな」が輝くのですから、前者が一番、後者が二番です。
 「生きんかな」が一番でなければならない、そうでなければ「生きんかな」にならないと思うのは、同じ尺度で競おうとしているからではないでしょうか。「生きんかな」が、もうひとつの「生きんかな」と競合するのでしたら、先を越されるのは具合が悪い。でも「生きんかな」は「生かしめんかな」に支えられることではじめて安心して「生きんかな」とすることができるのです。

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