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2013年10月16日(水) [はじめての『教行信証』(その80)]

 存在の負い目。負い目を感じるのはどうやら「死者」に対してのようです。死者への負い目は返すあてがありません。相手が死んでしまっているから返せないということより前に、そもそも返すことが不可能な種類の負い目だということです。自分が「いまここに存在している」ことの負い目ですから。
 存在の負い目とは「あなたは死んだのに、わたしはいまここに生きている」ことへのわだかまりですが、ここにはいろんな思いが混ざっています。まず、それは私が望んだことではないという思い。次いで、でもあなたはわたしの身代わりになってくれたのかもしれないという思い。あるいは、わたしはあなたという犠牲の上に生きているという思い。さらに、だからこそ「わたしはこのまま生きていていいのか」という問いが突きつけられてくる。
 一方では「あなたのお蔭で」と思いつつ、他方でそれが「負債として重くのしかかってくる」というアンビバレンス。
 この負い目はどう踏ん張っても自分で解消することはできません。それが生者への負い目と根本的に異なるところです。でも不思議なことに、負い目を感じたその刹那に「それでいいんだ、そのまま生きていていいのだ」という「こえ」が聞こえて、負い目の涙が負い目自身を洗い流してくれます。死んだ戦友に「なぜおまえが死んで、オレが生き残った」と流す涙が浄化作用をして、「おまえの分も生きなければ」と思わせてくれるのです。
 これが存在の負い目というものであるとしますと、そしてこの負い目こそあらゆる宗教の根幹であるとしますと、ここから大事なことが出てきます。

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