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2013年10月17日(木) [はじめての『教行信証』(その81)]

 阿弥陀仏とは、実は「死者たち」のことだということ。弥陀の本願とは、「死者たちのこえ」だということ。
 突拍子もない物言いで、各方面から異議申し立てが出てきそうです。でもはるかな昔から素朴な阿弥陀信仰に生きてきた庶民たちにとって、これはむしろ当たり前のことかもしれません。朝夕、仏壇に向かって「なむあみだぶつ」と称えるときに頭に浮かんでいるのは阿弥陀さまというより身近な死者たちではないでしょうか。亡くなった親や友や、ときにはわが子の顔を思い浮かべているのではないでしょうか。
 『歎異抄』に「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」とあるじゃないかと言われるかもしれませんが、それは「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」だからです。亡き父母だけを思い浮かべているのではないということでしょう。
 死者を仏と呼んであやしまないのも、その流れです。それは仏教の本来ではないと言われればその通りでしょうが、でもぼくらのこころの中にそのように定着しているのも事実です。死んだ人は仏になるのです。その仏たちから「なむあみだぶつ」の「こえ」がして、それに「なむあみだぶつ」と応答する。
 これが阿弥陀信仰として連綿と受け継がれているとしますと、それは仏教ではないといちゃもんをつけるのは、庶民の純な信仰心をないがしろにするものと言うべきです。また、末木文美士氏が『日本仏教の可能性』で提起されていますように、「葬式仏教」といういちゃもんについても考え直すべきではないでしょうか。

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