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はじめての『教行信証』(その82) ブログトップ

2013年10月18日(金) [はじめての『教行信証』(その82)]

 葬式仏教ということばには、仏教もここまで堕落したかというニュアンスが含まれています。葬式を執り行うだけの仏教。死者を相手にするだけで、生きているもののことは置き去りにしている仏教。そして葬式において戒名料やお布施など遺族が負担するお金が寺や僧を経済的に支えているという金銭的なドロドロもこのことばに含まれています。そのような面があるのは否めませんが、さあしかし仏教が長い間、死者との関係を受け持ってきたという事実はそう簡単に否定できるものではないでしょう。
 あの大津波で多くの方のいのちが失われたとき、お寺もお坊さんも流されてしまいましたから、さて弔いをどうするかということが現実的な問題として大きく立ちはだかりました。家族の遺体が戻ってきても、その葬式をすることができない。生き残った人たちがどういのちをつないでいくかが大事なのは言うまでもありませんが、同時に亡くなった人たちをどうするかも劣らず深刻な問題として突きつけられたのです。葬式仏教の必要性が改めて浮上してきました。
 葬式仏教は死者を相手にするだけで、生者を等閑にしているという批判がありますが、さてしかし死者のこえが生者に迫ってくることがあるのです。死者のこえはどれだけ振り払っても、どこまでもつきまといます。ここに葬式仏教の必要性があります。ですから葬式仏教は葬式仏教だからという理由で批判されるのではなく、ほんとうの葬式仏教になっていないからこそ批判されなければならないのではないでしょうか。ほんとうの葬式仏教というのは、死者とまともに向かい合う仏教です。死者のこえに真っ直ぐ耳を傾けようとする仏教です。

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