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2013年10月22日〈火〉 [はじめての『教行信証』(その86)]

 親鸞はこれに続いて「三心の字訓をうかがふに」と述べ、至心・信楽・欲生の文字の意味を調べることで、三心は信心の一心に集約されることを明らかにしようとします。こういうのを字訓釈と言いますが、ぼくにはあまりピンときませんので、その部分は割愛しまして二つ目の問答に進みます。
 至心・信楽・欲生の三心は結局のところ信心の一心に収まるとすれば、どうして阿弥陀如来は第十八願でこの三心を上げられるのだろうかという問いを立て、それに答えていくのです。信巻のねらい、すなわち「如来回向の信心(賜りたる信心)」を明らかにするという点から言えば、第一の問いよりもこちらがより重要なのは間違いなかろうと思います。
 「問い。字訓のように天親菩薩が経の三心を信心の一心に収められたことはなるほどと思われますが、阿弥陀如来が現に愚かで悪に染まっているわれらのために三心の願を起こされていることは、どのように考えるべきでしょう。答え。仏のお心を勝手に推し測ることはできませんが、わたくしなりに考えてみますと、一切の生きとし生けるもの、はるかな過去から今のときに至るまで、その心は穢れと悪に汚染され、清浄な心などどこにもありません。その心は虚仮と偽りに満ちていて、真実の心など一片もありません。そこで如来は、悩み苦しむ一切衆生を悲しみ哀れみたまい。思いはかることもできないほどの永い間衆生を救う菩薩行をしてくださったのですが、その身口意の行の一瞬といえども清浄でないことはなく、真実の心からでないものはありません。如来はその清浄で真実の心をもって、すべてが円かに融けあい、何ものにも妨げられず、思いはかることも、称えつくすことも、説きつくすこともできない徳を完成されました。如来は、その至心を、煩悩、悪業、邪智に満ちた一切の生きとし生けるものに与えてくださったのです。」


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