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2013年10月23日(水) [はじめての『教行信証』(その87)]

 ここでは、まず三心の中の「至心」について、どうして第十八願の中にこの至心がおかれているかを解明しようとしています。
 第十八願の三心は、うっかりしますと、われらが「至心に」、われらが「信楽し」、われらが「欲生する」と読まれてしまいます。そうすれば往生できると。それが根本的な迷妄であることを明らかにするために、この三心一心問答が展開されているということ、ここにポイントがあります。われらに至心などどこを探してもみつかりません。あるのは穢悪汚染にして虚仮諂偽(てんぎ)の心ばかり。至心は如来から廻向されるしかないのです。
 肝心なことは、ここにも先の二種深信の構造が見られるということです。
 われら衆生は「無始よりこのかた乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」。これは機の深信、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」とピッタリ重なります。そこで如来は「一切苦悩の衆生海を悲憫して」、清浄で真実の心、すなわち至心を「諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり」。これは法の深信でしょう。このように、至心はわれら衆生にもとからあるはずはなく、如来から廻施されなければならなかったのだということが説かれるのです。
 「至心」について述べられたのと同じ趣旨のことが「信楽」について、そして「欲生」についても丁寧に繰り返されます。われら煩悩具足の凡夫は「無始よりこのかた」宿業の中を流転してきて、どこにも「純粋に信じる心」、「純粋に廻向する心」は見当たらないから、如来はそれを憐れみたもうて真実の信楽と真実の欲生を与えてくださったということです。

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