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2013年10月28日(月) [はじめての『教行信証』(その92)]

(事情で更新が遅れました。)
(3)信楽開発の時刻の極促
 横超の菩提心の後、次の一文がきます。
 それ真実信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念といふは、これ信楽開発の時刻の極促をあらはし、広大難思の慶心をあらはす。
 「さて、真実の信心を考えてみますに、信心には一念があります。一念と言いますのは、信心が開かれてくる時刻のきわまりを表していまして、また広大で思いはかることもできない喜びを表しています。」
 これは行巻に「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念といふは、いはく称名の徧数について、選択易行の至極を顕開す」とあったことを受け、それに対応して信の一念を明らかにしようとしています。
 行の一念とは、「易行の至極」ということばに表されているように、たった一声「南無阿弥陀仏」と称えるだけ、ということです。それに対して「信の一念」とは「信楽開発の時刻の極促」、つまり「聞其名号、信心歓喜」の瞬間を指しています。それは「帰っておいで」という声が聞こえるその一瞬です。その一瞬に信楽が開発される。
 「信の一念」が一瞬であることに対応して、「行の一念」もまた一声です。「帰っておいで」の声が聞こえたその一瞬に、間髪入れず「はい、ただいま」と一声応える。このように「信の一念」と「行の一念」は別ものではありません、一つながりのものをあえて二つにしただけです。

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