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はじめての『教行信証』(その93) ブログトップ

2013年10月29日(火) [はじめての『教行信証』(その93)]

 『歎異抄』第16章に「一向専修のひとにをいては、廻心(えしん)ということ、ただひとたびあるべし」とある、この廻心が「信の一念」であり「行の一念」です。「はらをもたて、あしざまなることをもおか」すたびに廻心しなければならないのではなく、「もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらする」その一瞬が廻心です。だから生涯に一度きりです。
 この瞬間が不思議なのは、それが「いま」でありながら、「もうすでに」でもあるというところです。
 「序」にこうありました、「ここに愚禿釈の親鸞、よろこばしきかな西蕃月氏(インド)の聖典、東夏(中国)日域(日本)の師釈、あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえたり」。「いま」遇ったのに、「すでに」聞こえている。この不思議が「信楽開発の時尅の極促」です。この不思議は、『歎異抄』第1章の「念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」のくだりでも感じます。
 「念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき」とは、どこかから「なむあみだぶつ」の声が聞こえてきたときのことでしょう。それが「いま」です。「なむあみだぶつ」の声が聞こえてきたそのとき、「すなはち」と続きます。これは普通「ただちに」と解釈されます。それが文法的には正しい。しかしぼくはそれを「もうすでに」と読みたいのです。この文がそのように読めと言っているように思えるのです。

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