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2013年10月30日(水) [はじめての『教行信証』(その94)]

 「いま」信が開け救われるのですが、そのときには「もうすでに」救われている。信の門を入るのは「いま」ですが、入ってしまうと、そこには「もうすでに」救いの世界が広がっているのです。
 こう言えばいいでしょうか、「もうすでに」救われているのだということに「いま」気づき、「いま」救われた、と。「いま」救われたのに、「もうすでに」救われている。この不思議が「信楽開発の時尅の極促」です。
 この「いま」が「もうすでに」であるという不思議は、先ほどの「よこさまに超える」という表現についても言えます。
 「よこさまに超える」とは「ふりむけば愛」ということでした。ふと横を向いたとき、これまで煩悩の海だと思っていたところが、不思議や、そのままで本願の海であることに気づくのです。「ふりむく」のは「いま」です。でも、そこは「もうすでに」本願の海だった。もう十劫の昔から本願の海だったのです。これまでそのことに気づかなかったのが、「いま」それに気づいたのです。
 この「もうすでに」というところに「信じることの歴史性」が滲み出ています。弥陀の本願を信じるというのは、単にぼく個人のこころの中の出来事ではなく、歴史の中の出来事であるということ、本願の歴史の中にぼくが参入するということなのです。こうして本願の歴史が開かれ、横超の金剛心をえたものは「真の仏弟子」と呼ばれ、「弥勒仏にひとしい」と言われます。

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