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2013年10月31日(木) [はじめての『教行信証』(その95)]

(4)かたきがなかにうたたまたかたし
 信がひらける慶びを語る中で、その難しさにもふれないわけにはいきません。善導のことばとして有名な「たまたま希有の法をきくこと、これまたもともかたし(最も難し)とす。みづから信じひとをして信ぜしむること、かたきがなかにうたた(いよいよ)またかたし」が引かれます。
 正信偈にも「信楽受持すること甚だ以て難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし」とありますが、一体どこに難しさがあるのでしょう。
 問題の焦点は「わたし」にあります。どれほど「賜りたる信心」と言われても、どれほど「他力の念仏」と言われても、やはり「わたし」が信心し「わたし」が念仏するという思いから離れることができない。この「わたしが」の力の大きさには舌を巻かざるを得ません。
 唯識でマナ識とよばれる深層意識は、この「わたしが」にこだわる心です。マナ識の厄介なところは無意識のうちに「わたしが」にこだわっているということです。人に親切をしてあげるときも、自分ではそんなことを意識していないのに、心の奥底で「わたしが」してあげていると思っている。
 だからその親切が無にされると腹が立つのです、折角「わたしが」してあげているのに、と。これがマナ識です。前にも検討したことがありますが、ぼくらがいちばん傷つくのは「わたし」がないがしろにされるときです。「わたし」の意向が無にされたり、「わたし」の思いが踏みにじられたりするとき、耐え難い苦しみを覚えます。

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