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2013年11月5日(火) [はじめての『教行信証』(その100)]

 この二つの文章はぴったり符合しています。「定聚のかずにいることをよろこばず」は「踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふ」ということですし、「真証の証にちかづくことをたのしまず」は「いそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬ」ということです。天におどり地におどるほどの喜びが溢れるはずなのに、一向にこころが躍らないのです。どうしてこころが躍らないかと言いますと、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いるからです。愛欲や名利にこころが奪われているからです。
 あるとき、ふと「帰っておいで」の声が聞こえ、こころに喜びが溢れる瞬間、これが「信楽開発の時刻の極促」でした。この一瞬がすべての始まりです。でも、それがそのまま持続するわけではありません。天におどり地におどるほどの喜びは続かないのです。また平凡な日常が戻ってきて、愛欲や名利にかまけ、気に入らないことがあると怒りを爆発させたりします。
 「信楽開発の時刻の極促」は煩悩を消してくれるわけではありません。信心歓喜があると同時に、煩悩もそっくりそのままあるのです。ですから天におどり地におどるほどの喜びの中で「いつ死んでもいい」と思ったその直後に、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」のです。
 もう一度「よこさま」に戻ります、生死の海を迷い苦しんでいるとき、ふとよこを向くと、そこがもう本願の海であることに気づくということでした。それを逆に言いますと、本願の海に浮かんでいることにしみじみと喜びをかみしめているとき、ふとよこを見ると、そこは依然として生死の海であるわけです。そこには愛欲や名利にうつつをぬかしている自分がいるわけです。「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく」思っている自分がいるのです。
 生死の海と本願の海はひとつなのです。

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