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はじめての『教行信証』(その103) ブログトップ

2013年11月8日(金) [はじめての『教行信証』(その103)]

 釈迦のことばを聞いた阿闍世王は喜びの中でこう述べます。
 「世尊、われ世間をみるに伊蘭子(いらんし)より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹(せんだんじゅ)の生ずるをみず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるをみる。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心無根の信なり。無根はわれはじめて如来を恭敬せんことをしらず、法僧を信ぜず、これを無根となづく。世尊われもし如来世尊にまうあはずば、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦をうくべし」。
 伊蘭の実はその悪臭が強烈で人を狂わせるほどですが、一方、栴檀は「双葉より芳ばし」と言われるように、その香気は素晴らしく、たった一本あるだけで周辺の広大な伊蘭林を芳香で包みこむとされます。阿闍世王はその伊蘭と栴檀のたとえで信を得て救われた喜びを語っているのです。
 さて、親鸞はどうして長々と『涅槃経』を引用しているか。
 先ほど、「かなしきかな愚禿鸞」がいかに唐突かということを述べましたが、この阿闍世王の悲嘆と歓喜との関連で見ますと、親鸞はここで宿業について考えようとしているのに違いありません。前に言いましたように、『教行信証』では宿業という思想はほとんど姿を見せません。しかし、宿業ということばこそ使わないものの、ここで親鸞は己の宿業について深く思いを致していると感じるのです。
 親鸞は阿闍世王の姿に自分を重ね合わせて己の宿業の深さを見ようとしていると思います。阿闍世王の悲劇をどこか遠い世界のお話としてではなく、自分の身の上に起こっていると感じている。そうでなければ、どうしてあれほど長々と『涅槃経』から引用しているのか理解できません。

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