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はじめての『教行信証』(その104) ブログトップ

2013年11月9日(土) [はじめての『教行信証』(その104)]

 親鸞は宿業を感じることで阿闍世王と一体となっています。「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」(『歎異抄』第5章)です。
 思い出したことがあります。もうだいぶ前になりますが、韓国に旅行したときのことです。今また日本と韓国との間がギスギスしていますが、当時はもう少し違った緊張感がありました。植民地時代の血がまだ滴っていたという感じです。
 キョンジュ(慶州、新羅の古都です)の古刹、仏国寺(たしか世界遺産に登録されたはずです)を訪ねたとき、韓国人女性ガイドが「このお寺はお国の豊臣秀吉が焼き払い、石造建築物以外はほとんど残っていません」と説明してくれました。
 彼女は何とも思っていなかったのかもしれませんが、「お国の」ということばがぼくの胸に突き刺さりました。
秀吉の朝鮮侵略は400年以上前のことです。同じ日本人に違いありませんが、秀吉とぼくとは何の関係もありません。にもかかわらず「お国の」ということばがぼくを突き刺す。これが歴史意識というものでしょう。いやでもおうでも一つの歴史の中に生きているという感覚。
 宿業も歴史意識です。同じ宿業の中に生きていると感じるのです。だから他の人のことであっても自分には関係ないとは思えない。同じ宿業の血が流れているからです。釈迦が阿闍世王に「あなたに罪があるなら、わたしも同罪です」と言うのも、親鸞が阿闍世王と一体となって罪を感じるのも、この宿業の感覚からに違いありません。

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