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はじめての『教行信証』(その106) ブログトップ

2013年11月11日(月) [はじめての『教行信証』(その106)]

 この問いに対して親鸞は曇鸞と善導の考えを紹介します。
 曇鸞はこう言っています(『論註』)、「無量寿経は、五逆と謗法の二つがともにあるから往生できないと言っていて、観無量寿経は、五逆のものも往生できると言い、謗法のことは言っていません。つまり五逆はあっても謗法がなければ往生できるということです」と。こう解釈すれば矛盾はないと言うのです。
 さらに「謗法は自分だけに関わることであるのに対して、父母を殺すなどの五逆は他に害を加えるのですから、五逆の方が罪が重いと思えますが」という疑問に、「五逆も仏法を誹謗するところから生ずるのですから、謗法の罪がベースになっていて最も重いのです」と答えます。
 善導はといいますと、こう言います(『観経疏』)、「第十八願に五逆と謗法を除くとあるのは、この二つの罪が重いことを強調して、それをしないように警告しているのであり、それをしたら往生できないという意味ではありません。また観無量寿経に五逆は往生できるが謗法はできないというのは、五逆はすでに犯してしまっていますから、それでも見捨てられずに往生することができるのです。しかし、謗法はまだ犯していませんから、それをしないように抑止しているのです。だからもし謗法を犯してしまっても往生できないわけではありません」と。
 要するに、五逆も謗法も、それを犯したからといって往生できないわけではありませんが、ただそれらは重い罪ですから犯さないようにと抑止しているというのです。

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