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2013年11月15日(金) [はじめての『教行信証』(その110)]

             9.証巻
(1)正定聚(しょうじょうじゅ)とは
 「教」と「行」と「信」、本願と念仏と信心、これらは別ものではなく、弥陀から廻向されたものとして一体ですが、それらに続いて次に「証」がきます。仏教で証と言いますと、もちろん悟りを開くこと(それを菩提と言ってもよく、涅槃と言ってもいいでしょう、滅度という言い方もあります)であり、仏になることです。
 しかし、浄土の教えでは、われら凡愚の身は煩悩から解脱することはできませんから、今生で悟りを開いたり成仏することは不可能です。としますと、来生で悟りを開くことが証ということになるわけですが、ここに微妙で、かつ本質的な問題があります。
 ともあれ親鸞のことばを聞いてみましょう。
 「つつしんで真実の証を明らかにしますと、それは他力によって与えられ、すべての功徳を円満した位で、この上ない涅槃という果実です。それは必至滅度の願すなわち第十一願からきています。その願をまた証大涅槃の願とも言います。〈しかるに〉、煩悩にまみれ、生死に迷い、罪障をまとっているわれら群萠は、如来が廻向してくださった信と行を得たそのときに、そのままで大乗の正定聚の数に入れていただけるのです。正定聚に入ったのですから、かならず滅度すなわち涅槃に至るのです。」
 これが証巻冒頭の文章です。真実の証とは涅槃に至ることであり、それは第十一願に誓われていると言っています。ここまでは当然のことと普通に受け取ることができます。問題は、その直後の〈しかるに〉です。

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