SSブログ
はじめての『教行信証』(その117) ブログトップ

2013年11月22日(金) [はじめての『教行信証』(その117)]

(2)「煩悩を断ぜずして涅槃分をう」
 さて、親鸞は第十一願とその成就文を上げた後、「現生において正定聚となる」ことを確認するために、曇鸞の『論註』と道綽の『安楽集』、そして善導の『観経疏』から引用しますが、ここでは『論註』からの引文に注目したいと思います。
 「凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうれば、三界の繋業(けごう)畢竟(ひっきょう)してひかず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分をう、いづくんぞ思議すべきや」。
 「煩悩にまみれた凡夫が、阿弥陀仏の浄土に往生することができましたら、迷いの世界で積み重ねた罪業も結局のところ一切さわりとなりません。すなわち煩悩を断ち切ることなく涅槃の境地を得ることができるのです。これがどうして思いはかることができましょうか」。
 親鸞以前は、浄土に往生してのち正定聚となり、さらに修行を重ねて滅度(涅槃)に至ると考えられてきました。つまり、往生することはそのままで涅槃を得ることではなかったのです。
 しかし、この曇鸞のことば「煩悩を断ぜずして涅槃分をう」からしますと、この娑婆世界では煩悩まみれになっていますが、弥陀の本願力で煩悩をもったまま浄土に往生できたら、ただちに涅槃に入ることができるというのですから、涅槃に入ること(仏になること)を約束される正定聚になるのはそれ以前、つまり今生においてであると考えざるを得ません。
 理屈をこねているように思われるかもしれませんが、正定聚になるのは浄土に往生してからとするこれまでの考え方は筋が通らないということになります。

はじめての『教行信証』(その117) ブログトップ