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はじめての『教行信証』(その122) ブログトップ

2013年11月27日(水) [はじめての『教行信証』(その122)]

 来生は問題とならないとしますと、還相とは何か。鍵となるのはここでも正定聚です。証巻冒頭の「如来が与えてくださった信と行を得たそのときに、そのままで大乗の正定聚の数に入れていただけるのです」を思い起こしましょう。親鸞にとって信と行の証(あかし)とは「正定聚のかずにいる」ことでした。
 往相の到着地は正定聚なのです。としますと還相の出発地も正定聚でしょう。正定聚へ往き、正定聚から還る、もちろん今生においてです。これが往相・還相であるとすれば、そこからどんな世界が広がるでしょう。
 往相についてはもういいでしょう。「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、ないし一念せん)」です。かくして「即得往生、住不退転(即ち往生をえ、不退転に住す)」でした。問題は還相です。正定聚となり、いよいよ衆生済度に乗り出すのでしょうか。
 善導のことばに「自信教人信」というのがあります。「みづから信じひとををしへて信ぜしむる」と読みます。「難中転更難(かたきがなかにうたたまたかたし)」と続いて、これほど難しいことはないと善導は言っています。このことばは浄土真宗においてしばしば引き合いに出されますが、これを普通の感覚で読んでしまいますと、足をすくわれます。
 生徒に何かを教えようとするとき、教える自分にどこかあやふやなところがありますと生徒は必ず躓きます。自分が完全に分かっていないと人に教えることはできないということです。宗教も同じで、自分がこころの底から信じていないと、人を信じさせることなどできるはずがないと思います。だから、まず自分自身がしっかり信じることが肝心で、そうしてはじめて人を教えて信じさせることができる。これが常識的な考え方でしょう。でも、ほんとうにそうか。

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