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2013年12月1日(日) [はじめての『教行信証』(その126)]

 「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」の「他者」を「弥陀」と読み替えてはいかがでしょう。
 ただそのとき、阿弥陀如来という実体がどこかに存在するかのようにイメージしてしまいますと、この詩の輝きを取り逃がすことになります。どこかに弥陀がおわして、あらゆる生命の欠如を満たしてくださるとしてしまいますと、いのちのダイナミズムが見失われるのです。
 いのちは「互いに 欠如を満たす」のだということ、ここにこの詩の「いのち」があります。
 さて誰かに欠如を満たしてもらうのが「往相」で、誰かの欠如を満たしてあげるのが「還相」です。そして大事なことは「互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士」ということです。ぼくは誰かにぼくの欠如を満たしてもらおうなどと思ってもいないのに、ふと気がつくとすでに満たされているのです。「こんな自分がこのまま生きていていいのか」という問いにぶつかったそのとき、思いがけず誰かから「そのまま生きていていい」という声が聞こえてくる。その人にはそんな意識はまるでないのに、ぼくにはそう聞こえ、そしてぼくの欠如が満たされる。
 まったく同様に、ぼくは誰かの欠如を満たしてあげようなどと思いもしないのに、ぼくのちょっとしたことばや仕草で誰かが欠如を満たされることがあるということ、これが還相です。「花が咲いている/すぐ近くまで/虻の姿をした他者が/光をまとって飛んできている」。虻には花の欠如を満たしてあげようなどという意識はまるでなく、ただ蜜を吸いたい一心で飛んでくるだけなのに、それが花の欠如を満たすことになっているということ。虻はその前姿ではただただ甘い蜜を吸うという己の利益しか考えていないのに、その後姿は利他行を働く普賢菩薩となっているのです。
 「私も/あるとき/誰かのための虻だったろう」。

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