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2013年12月6日(金) [はじめての『教行信証』(その131)]

 「きのう」は記憶の中にしかないということ。
 でも、「きのう」の出来事がビデオにとってあれば、記憶されていなくても「きのう」はあるのではないでしょうか。あるいは日記に記録されていれば、どれだけ経ってもなくなることはありません。
 確かに。
 しかし、それは「記録される」という形であるだけです。「きのう」は記録の中にあるのです。「記録する」のも、広い意味の「記憶する」ことの中に含まれるでしょう。やはり「きのう」は「記憶される」とか「記録される」とかしてあるだけで、「きょう」という日のありようとは全く別です。
 では「あした」はどうでしょう。
 「きょう」が終わって「あした」が来るのですから、「あした」は未だ存在しません。しかし「あした」がないなどと思う人はいないでしょう。必ず「あした」はある。ぼくらはこの「あしたはある」という思いに支えられて生きているとも言えるでしょう(そう言えば、ぼくらが若かりし頃、「あしたがあるさ、あすがある」という歌を坂本九ちゃんが歌っていました)。
 でも、ぼくらはどう頑張っても「あした」に行くことはできません。「あした」に行った途端、それは「きょう」ですから。「きょう」が終わると「あした」が来ると言いましたが、「きよう」はいつまで経っても終ることはありません。ですから「あした」が来ることも永遠にありません。
 来るのはいつも「きょう」です。

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